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Channel: マルクス未来社会論と個人発達
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有井行夫氏の所有論

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 私は以前このブログにおいて、「所有」と「所有権」との概念の区別について述べたことがある(2011.01.26「所有諸形態の統一的把握のための覚書」)。そこで、平田清明氏、有井行夫氏について、「所有」と「所有権」を混同していると書いた。それにたいして、阿蘇地☆曳人さんからコメント(http://blogs.yahoo.co.jp/ebi3des/60689364.html#62228274)で、私のいう意味での「所有」と「所有権」を、有井氏は「所持」、「所有」という表現で区別している旨のご指摘をいただいた。

 そこで、有井行夫氏の所有論について、マルクス所有論の解明の今日的な重要性を意識して、氏の著作『マルクスはいかに考えたか』(桜井書店2010年)にもとづいて考えてみたい。この本は、「一般読者も対象として意識された研究書」として有井氏が書き下ろしたもので、氏の難解な(この「難解さ」の責めは私自身の不勉強さにあることは十分に自覚していますが)著作に比してその叙述が相対的にわかりやすいからです。

 有井氏は、以下のような簡単な「モデル」によっても、「所有概念」を「厳格に原理的に限定」することが可能だとする。

 「小学三年生のある三〇人クラス。先生は出張日でこの時間は自習。教室はざわついている。太郎が真新しい筆箱をだいじそうに取り出して叫んだ。『これ、ボークんの!』『取っちゃいけないよ』、周囲を威嚇するように見まわした(A)。太郎は筆箱の安全を確保しながらクラスの皆に見せびらかしたかったのだ。ところが、そのとき、不覚にも太郎は尿意をもようしてしまった。太郎がトイレに立つや否や、案の定、次郎が『これ、ボークんの!』と叫んで筆箱を手に取った。ところが、つぎの瞬間、太郎の席の隣の花子が叫んだのだ。『次郎はいけないーんだ。それ太郎んの!』つづいてクラスの全員が唱和した。『次郎はいけないーんだ。それ太郎んの!』(B)」(p175)

 有井氏はこの「モデル」のなかの、(A)を「事実としての対象取得(占有)」とし、(B)を「社会的に承認された対象取得、すなわち所有」とされる。

 すなわち、(A)のように、太郎や次郎が筆箱を実際に自分の手に持って「自分だけの持ち物」として宣言するかぎりにおいては、太郎や次郎の筆箱にたいする関係は、「事実としての対象取得(占有)」(「権利ではない取得」)であり、(B)のように、クラスの全員(社会)が、筆箱は「太郎だけの持ち物」と承認している状態での太郎と筆箱の関係を、「社会的に承認された対象取得、すなわち所有」(「権利としての取得」)として規定される。

 この「モデル」では、「これ、ボークんの」は、社会的承認の有無(権利の有無)とは関わりなく、「取っちゃいけないよ」(他の誰のものでもない自分のもの)からも分かるように、「自分だけの排他的な持ち物」として設定されている点に注意されたい。

 「自分だけの排他的な持ち物」の社会的承認=「所有」とするならば、「所有」=私的所有となってしまう。もし、そうではなく、「社会的承認」に力点を置いて、「すべての社会的構成員の共同の持ち物」の社会的承認をも「所有」とされるのであれば、上記のモデルは不適切であろう。

 さらに有井氏は、「占有」の「対象」は「物」、「所有」の「対象」は「商取引の対象」=「物件(物象)」であり(p178)、「占有」の取得主体を、「人間」、「所有」の取得主体を「人格」として、「占有」と「所有」の主体と対象をそれぞれ区別される。

 「取得」については述べられていませんが、上のことから、「自分だけの持ち物にすること」といった意味で使われている。

 有井氏は、「所有」概念をこのように把握したうえで、所有の存在形式としての「社会的承認」は「それ自体としては意識的諸関係」であって、それゆえ「生産諸関係にたいして所有諸関係は派生的である」として、スターリンにはじまる「生産関係の基礎としての所有論」を批判される。

 私は、所有の一般的本質的規定は、「労働と所有の同一性」概念において与えられていると考える。「労働と所有の同一性」とは、たんに労働者と労働生産物の所有者との同一性のことではない。それは、労働する個人の労働そのものが、自己の労働にたいする労働する諸個人の意志を貫く様態での関わりとしての所有(「自己の労働にたいする所有」)であることの結果に過ぎない。これが「労働と所有の同一性」概念の基本的な内容である。

 自己の労働にたいする労働する諸個人の関わりが、他者(資本)の意志を貫く様態での関わり(資本家的所有)であるならば、「労働と所有の同一性」は否定され、「労働と所有の分離」(労働が労働者にとって所有でなくなること)が発生し、その結果として労働者と労働生産物の所有者は分離される。それゆえ、疎外された労働は疎外された所有でもある。私的所有は所有の疎外された形態である。

 ところで、マルクスは「労働」の一般的概念規定を、「労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない」(『資本論』)として、特定の歴史的生産関係を捨象した論理的次元で定立している。

 「労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、コントロールするのである。」(同上)
 「労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心像のなかには存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。」(同上)―この規定は、動物の生命活動と質的に区別される限りで労働という人間に特有な生命活動の特質を規定したものであり、労働の特定な社会的形態を規定したものではない。―

 ここでは、「人間」の「労働」は、「自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、コントロールする」ところの、「彼の目的を実現する」ところの「一過程」として規定されている。
すなわちこの過程は、「人間」が、「自分と自然との物質代謝」を、「自己の主体性に帰属させる形で関わる」過程であり、それは同時に、「自分と自然との物質代謝」にたいする人間の自分自身の意志を貫く様態での関わりとしての「所有」のことでもある。この意味で、「労働」と「所有」は「同一」であり、これが「労働と所有の同一性」の基本的な内容規定である。

 
 
 だから、「特定の社会的形態」を捨象した労働の一般的概念規定とは、「特定の社会的形態」を捨象した所有の一般的概念規定でもある。それはまた、「労働」の本質規定でもあり、「所有」の本質規定でもある。所有概念は、労働概念同様に、「まず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察」され、規定されうるのである。ここでは「労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのである」(同上)。それゆえ、労働と所有の一般的本質的概念規定には、人間相互の社会的関係・生産関係は含まれていない。

 
 
 スターリン所有論の最大の欠陥は、日常用語の「持つことHaben」として所有を皮相的、現象的に曲解したうえで、「生産手段を誰が持つか」を生産関係の基礎に据えた点にある。所有は労働を「労働者の自分自身の労働にたいする関係」(労働者自身の意志を貫く様態での関わりなのか否か)という視点から規定した概念(当然、労働者自身の意志を貫く様態での関わりとしての所有が、その一般的本質規定となる)なのである。

 冒頭で紹介した以前のブログでとりあげた所有と所有権の有井氏による混同という表現は、氏が所有を社会的承認(私の理解では所有権)として把握している限りにおいて述べたものであり、有井氏が、「事実としての対象取得(占有)」にしても「社会的に承認された対象取得、すなわち所有」にしても、「物」を「自分のものとして持つこと」として、私的所有観念でとらえている点で、私との理解の仕方が基本的に異なっている。

 それは、有井氏が「『所有』とは、社会現象を深部で規定する『労働』にとってかわるような本質的な関係ではない。日常的な意識にあらわれている現象的な『関係』である」(p175)とされているのにたいして、私は、見られるように、労働と所有を対等の位置関係にある「本質的な関係」を表現したものとして把握しているからである。

 他にも様々な問題、『共産党宣言』で「所有問題」を何故「共産主義運動の根本問題」だとしたのか、生産手段を社会の持ち物だとすることの社会的承認(国有化)=「日常的な意識にあらわれている現象的な『関係』」としての「社会的所有」と、社会のすべての構成員が社会的結合労働にたいする自己の意志を、社会的な意志として共有し、共有された社会的な意志を社会的な共同で貫く様態での、社会的結合労働にたいする関わりとしての社会的所有(私の理解する「社会的所有」)との距離(前者の「社会的所有」は法律制定と同時に実現する法的概念)等々、があるがここでは触れない。

 最後に、このような考察の機会を与えていただいた阿蘇地☆曳人さんに感謝します。

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